グッと身近に来る日本史

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歴史が「暗記科目」から脱皮できない根の深い理由

 近い将来、高校の歴史教科書から坂本龍馬の名が消えるかもしれない-。そんなニュースが流れ、世間を騒がせました。高校と大学の歴史教育者で作る「高大連携歴史教育研究会」が、教科書の用語数を削減しようという提言をしたためです。

 

 同研究会がこのような提言をした背景には、「歴史的思考力の育成」を掲げ、「歴史系科目=暗記科目」からの脱皮を図る、といった目的があります。しかし、これを実現するには用語の削減だけでは済まされない難しい問題が潜んでいるように思います。

 

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たしかに、現行の歴史教科書には用語がいっぱい!(写真中、線より下は用語解説)

 

 前回の、「歴史教科書から坂本龍馬が消える!?」を哲学する、に引き続いて、今回は、歴史という学問の特性からこの「難しい問題」を考えていきましょう。

 

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 さて、高校で学ぶ基本5教科(国語、数学、英語、社会、理科)のうち、文科系、理科系を問わず基本となる国数英の3教科を除いた、社会と理科を比べて、どちらが暗記科目かと問われれば、ほとんどの方が社会と答えるでしょう。なぜでしょうか。ここでは「社会」をまず「歴史」と置き換えて、考えてみましょう。  

 

 そもそも歴史とは何でしょうか?。これを深掘りして考えるのが「歴史哲学」という学問領域です。この領域で名著とされるのが、そのタイトルもズバリの『歴史とは何か』(E.H.カー著、清水幾太郎訳、岩波書店刊)です。

 

 

 本書で筆者のカーは、「歴史は、現在と過去との対話である」という言葉を繰り返し使っています。

 

 これには少し説明が要ります。翻訳を担当した清水幾太郎氏の言を借りれば、

 

 過去は、過去ゆえに問題となるのではなく、私たちが生きる現在にとっての意味のゆえに問題となるのであり、他方、現在というものの意味は、孤立した現在においてではなく、過去との関係を通じて明らかになるものである。したがって、時々刻々、現在が未来に食い込むにつれて、過去はその姿を新しくし、その意味を変じて行く。

 

 つまり、カーの言う「歴史は、現在と過去との対話である」とは、歴史は時代とともに変わっていく、ということを意味しているのです。

 

 また、カーは「歴史を研究する前に歴史家を研究せよ」とも言っています。歴史はそれを書く歴史家の問題意識によって変化する、といった考え方からです。

 

 このような「歴史家の主観によって変化する」という特性を持つ歴史という学問を踏まえつつ、とくに理科系の物理や化学と比較しながら考えると、次のように言えるでしょう。

 

 歴史とは、定理・法則のない学問である 

 

 私自身は、歴史の中でもとくに経済分野において、しかも特定の時代に限れば、歴史の中に潜む法則性をみることができると考えています(これについては、いつか1冊の本にまとめたいと思っています)。ただ、全時代、全分野を通じて何らかの歴史の法則性を語ることはできないでしょう(しいて言うなら、「歴史上の人物に学ぶ人生訓」といったものはあると思いますが、これは学問とは別のものでしょう)。 

 

 このような、定理・法則のない、歴史という学問において、試験をしようとすれば、個々の事象についてひとつひとつたずねることとなり、ひいては知識の総量の勝負ということになってしまいます。

 

 定理・法則がないという観点に立てば、歴史だけでなく地理や公民を含めた全社会科に共通して言えることだと思います。そのため、その試験はどうしても知識の総量を問うことになりがちで、「社会科=暗記科目」となってしまうというわけです。

 

 私は、このようなブログをやっているくらいですから、本来、歴史はおもしろいものだと考えています。 しかし、こと「試験をする」ということになると、どうしても暗記科目になってしまうというある種の「宿命」を、歴史という学問は負っているのです。

 

  しかも、その試験が「入試」という特別なものとなれば、なおさらです。そこで次に、「受験科目としての歴史」の問題について考えていきたいと思います。

 

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