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パークス襲撃事件-英国から見た「最後の攘夷」

 王政復古の大号令直後の1868年2月(慶応4年1月)、新政府は国際法に基づく外交を行うことを宣言、天皇が英仏など各国公使に謁見することとなりました。3月23日には英国公使ハリー・パークスが謁見のため御所に向かいますが、途中、攘夷志士に襲われます。

 

 後に「パークス襲撃事件」と呼ばれるこの一件は、「最後の攘夷事件」と位置づけられることになりました。パークスに随行していた外交官アルジャーノン・ミットフォードの回顧録『英国外交官の見た幕末維新』には、この時の状況が詳細に記されています。英国側から見たこの事件のてん末を見ていきましょう。

 

 

後藤象二郎と中井弘蔵の奮戦

 

  謁見当日の昼過ぎ、英国公使の行列は宿舎となっていた知恩院を出発します。行列は以下のような大人数でした。

 

 列の一番最初は公使館の騎馬護衛隊で、ピーコック警部が指揮していた。彼らはロンドン警視庁から来た精鋭の士で、槍を持って着飾り、見た目に華やかな小部隊であった。次にパークス公使が馬に乗って、サトウと二人の高官、すなわち後藤象二郎と中井弘蔵がその後に続いた。その次が第九連隊の護衛隊で指揮官はブラッドショー中尉とブルース中尉(原注=後のエイルズベリー侯爵)であった。私の馬は運悪く片足をひどく痛めていたので、私だけは駕籠に乗ってその後に続いた。私の後には約千五百人から二千人くらいの日本人の兵士が護衛として従った。

 

 しかし、出発してすぐに事件が起こります。

 

 寺の門に面したまっすぐな道路を我々の行列は何の妨害もうけずに進んでいったが、列の先頭が居酒屋や芸者置屋の多い新橋通りの角を曲がろうとした時、抜き身の刀を手にした二人の浪人者が飛び出して来て、怒りに狂ったように行列に切りかかった。通りは非常に狭かったので、護衛兵の槍は家の軒先に邪魔されて役に立たなかった。

 

 先頭にいた騎馬護衛隊が混乱する中、隊列の中にいた日本人ふたり、後藤象二郎と中井弘蔵は渦中に飛び込み、奮戦します。

 

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後藤象二郎と中井弘蔵(右、弘とも)の奮戦でパークスは無事だった

 

 中井弘蔵が馬から飛び下りて、刀を抜いて敵の一人と渡り合ったが、長袴に足をとられてつまずいたところを、敵が力いっぱいの死にもの狂いの勢いで、頭上目がけて振り下ろした一撃を受けたが、危ういところで何とかそれをかわすことができた。

 

 パークス公使と一緒にいた後藤象二郎は、この時まだ角を曲がりきっていなかったが、馬が戻って来たり、前方が騒がしくなったので、異変が起きた起こったことに気づいて、急いで馬から下りて前のほうへ中井の救援に駆けつけた。彼らは敵と激しく戦って、ついに悪党の一人を切り伏せ、中井が飛び起きて、彼の首を切り落とした。 

 

  土佐藩出身の後藤象二郎については、大政奉還の立役者のひとりですから、皆さんもご存じでしょうが、中井弘蔵については説明がいるでしょう。

 

 中井は、本書では弘蔵となっていますが、弘とも言います。もともとは薩摩藩士でしたが、早くに脱藩。土佐の坂本龍馬や後藤象二郎と知り合い、彼らの支援もあって英国へ留学します。維新後は新政府で外国事務各国公使応接掛となった後、滋賀県知事や京都府知事を務めました。

 

 ちなみに中井は後世、ある話題を提供します。彼が残した元勲などのアルバムの中に立ち姿の若い女性の写真が一枚あり、彼が生前の坂本龍馬とも縁のある人だったことから、これが龍馬の妻、お龍さんではないかと歴史ファンの間で話題となりました。十分に考えられる話ですが、真偽については意見が分かれているようです。

 

「外交上の大事件」を不問にした英国

 

 さて、結局、この事件は、犯人ふたりのうち、朱雀操はその場で斬られ即死。もうひとりの三枝蓊は捕らえられ、後に斬首となりました。一方の英国側は負傷者10名ほどで、死者なし。パークスは無傷でした。

 

 事件直後、パークスはミットフォードに「これは外交上の大事件だね」と語ったようですが、実際には英国側はこの件を不問にしました。英国公使を直接襲撃したという事実だけを見れば、英国公使館が襲撃されて大問題となった東禅寺事件と同等の事件なのですが、幕府と新政府ではまるで対応が違っていたからです。

 

 事件後すぐに新政府(朝廷)からは謝罪の使者が来て、誠意ある対応をとります。

 

 彼らは十分に補償することを申し出て、負傷者には賠償金を払うこと、そしてもし不幸にして死んだら家族に補償する意向を示した。それらの言葉は、このうえなく丁寧で、あらゆる意味で申し分のない立派なものだった。幕府との交渉に比べると、目立って対照的であった。パークス公使は、何ら不平を申し立てず、賠償の要求もしなかった。新政府のとった行動は、自発的な立派な措置であった。数ヶ月前の口論とおどかしで何とか物事を進めるやり方と縁が切れたのは全く有り難いことだった。 

 

  さらに、

 

 天皇の新政府は、これらすべての狂信的行為を根絶する準備を進めていると宣言した。その宣言によれば、これまで狂信者たちが英雄的行為と考えてきた外国人を殺害したり、侮辱したりする行為は、恥ずべき邪悪な犯罪であって、そのような罪を犯した者は刀を取り上げて士族の籍を抹消し、腹切りの特権を与えることなく重罪犯人として処刑し、処刑後はその首を刑場に晒しものにするという布告を公にすべく準備しているとのことだった。

 

 実際、この事件の犯人ふたりは士分を失った末に、さらし首となりました。

 

 こうした措置により、以降、攘夷事件はなくなり、士族の不満はもっぱら新政府へと向かいます(結果として、不平士族の乱へ)。

 

攘夷とは何だったのか

 

 最後に、攘夷とは何だったのか考えさせられる話をご紹介しましょう。ミットフォードは捕らえられた三枝蓊に食事を差し入れするなど接触を試みます。

 

 しばらくするうちに、彼は非常におとなしくなって、打ち解けるようになった。自分を殺そうとした男と話をするというのは奇妙な感じがするものだ。哀れな男はたいへん感謝して、外国人がこんなに親切な人間だと知っていたら、あのような企ては決して実行しなかっただろうし、そのことについて深く後悔していると、何度も繰り返した。彼は今こんなに親切な世話を受けて、全く恥ずかしい気がすると言った。

 

  なお、この事件について、犯人の朱雀操と三枝蓊の側から見た短編小説「最後の攘夷志士」を司馬遼太郎氏が描いており、『幕末』に収録されています。合わせてお読みいただくといいでしょう。