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「英国策論」を読んだ各藩の反応-宇和島藩、加賀藩

 幕末のクライマックスで『英国策論』を世に問い、一躍スター外交官となったアーネスト・サトウについて、今回は出版後の各藩の反応を見ていきましょう。

 

 サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』を読んでいると、各藩それぞれ細かい点については主張が異なるものの、サトウの『英国策論』がたたき台になって、一定の方向に議論が収れんしていっていることがわかります。自らの主張を公にした出版の意義は大きかったと言えます。

 

宇和島藩の反応

 

 まず1867年(慶応3年)1月、宇和島を訪問した際の話。当時の宇和島藩で実権を持っていたのは、前藩主である伊達宗城(だて・むねなり)でした。松平春嶽、島津斉彬、山内容堂らとともに「幕末の四賢候」と言われた人物で、それだけに外国の文物に対する好奇心も旺盛だったようです。

 

 『一外交官の見た明治維新』には、次のような宗城の姿が描かれています。

 

 隠居は顔だちのきつい、鼻の大きな、丈の高い人物で、年齢は四十九。大名階級の中でも一番の知恵者の一人だと言われてきた。

 

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幕末の四賢候のひとり、伊達宗城も『英国策論』を読んでいた

 

隠居は、自分の考えでは、日本を天皇を元首とする連邦国(confederated empire)にした方がよいと思うし、これには薩摩も長州も同意していると言った。それで私は、それはむずかしい事だが、しかしそれ以外には何らかの方法もないと考える。そして私はその趣旨の論文を横浜の一新聞に発表したことがあると言った。

 「おお」と、隠居は声を放った。「私はそれを読みましたよ」。それは、前に述べた、私の論文の翻訳を指したものだった。

 

 

 ふたりの会談は、1867年(慶応3年)1月はじめのことですから、前年春にジャパン・タイムズに掲載された英語の論文が、その年のうちには翻訳されて小冊子として有志の間で出回っていたことがわかります。(完全に公となる「出版」となるのはもう少し後のことだと思います)

 

加賀藩の反応

 

  1867年(慶応3年)夏、サトウは加賀藩の城下町、金沢を訪れます。金沢に着くと、藩主(前田慶寧)からの使者がやってきます。型どおりの挨拶を済ませると、やがて酒宴が始まります。

 

接待する側の日本人が、どうも椅子では窮屈らしく見受けられたので、日本の流儀によって家具を取り片づけ、畳にすわって杯の献酬を容易にしようではないかと、われわれの方から申し出た。よもやまの雑談のうちに大分時間もたち、人々の頭に多かれ少なかれ酒がまわってから、私たちは政治上の話題をもちだした。そして、大勢の人々と互いに打ちとけて談じ合ったのである。

 

  日本の国内問題に話が移ると、彼らは、大君の政府はもちろん存置せしむべきであって、薩摩や長州は他藩と提携して、全然これを廃止すべしと言っているようだが、それはよろしくない、しかし同時に、大君の政府の権力に対しては当然制限を加える必要があるだろう、と述べた。彼らは私のパンフレットを読んでいて、あの説には全く同感だと言った。そう言われて見ると、私たちとしても加賀藩の意見には完全に同意であると答える以外はなかった。

 

 加賀藩は世間一般からその貫禄を認められており、自らもそれに満足していた。したがって、日本の政治組織の変革なぞは加賀藩にとってはほとんど益するところがなく、心の底では政治の現状維持で満足していたかったのである。

 

 ここでの加賀藩側の主張は、『英国策論』に同感だとは言いながら、薩長のような「急進倒幕派」とは一線を画し、徳川家を中心とした諸侯連合をイメージしていたようです。これには、前藩主ながら当時まだ影響力を持っていた斉泰が佐幕的な考え方だったことが大きく影響しているように思われます。

 

 この点でサトウの描いていた構想とは少し違っていましたが、とはいっても、この加賀滞在によって、心情的には両者の距離はだいぶ近づいたようです。加賀藩としては外国人だからということで椅子に座っての酒宴を用意したのでしょうが、サトウの側から「畳の上でやりましょう」と言われ、それだけでもかなり打ち解けた様子が伝わってきます。

 

 さらに、サトウらが金沢を離れる際にはこのようなことがありました。

 

 街路は、またも熱心な見物人でいっぱいだった。金沢の町を離れてから駕籠をおり、絵のように美しい城郭が眺められる高台の料亭に立ち寄って、お別れのごちそうにあずかったのである。(中略)この料亭で魚を食べ、酒を飲んで一時間を過ごした。そして、この訪問の前までは何の交際もなかった加賀藩の人々と永久に変わることのない友情を誓ったのである。

 

 日本的なおもてなしと、日本語を話せ気さくな性格のサトウとが、うまくかみ合ったようです。

 

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