グッと身近に来る日本史

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実は日本存亡の瀬戸際だった「生麦事件」

 幕末のスター外交官、アーネスト・サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』を読むシリーズ2回目。今回はサトウの来日直後に起きた「生麦事件」についてです。事件直後、横浜の外国人社会は震撼し、英仏など連合軍による即時報復論が巻き起こります。一触即発の危機的な状況でした。

 

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生麦事件の状況を描いた錦絵。横浜の外国人社会はこの事件に震撼、即時報復論が起きていた

 

 あらためて生麦事件とは、文久2年8月21日(西暦1862年9月14日)、現在の神奈川県横浜市生麦付近で、薩摩藩士が大名行列の中に侵入した英国人を殺傷した事件。サトウの来日からわずか1週間後のことでした。 

 

 この時、サトウは横浜の英国領事館で働き始めていました。事件当日のサトウの回想です。

 

 その日の午後、私はホテルの外に立っていたが、騎馬で急ぐ人々の騒ぎを見て、何事が起こったのかと尋ねた。「イギリス人が二人、神奈川で斬り仆(たお)された」というのだ。私は、少しも驚かなかった。前にイギリスの新聞に出ていたこの種の事件の記事や、北京からの途中で耳にした公使館襲撃事件などで、外国人の殺害など日常茶飯事ぐらいに思うようになっていたのだ。

 

 

 以前、このブログでは、英国の初代公使、ラザフォード・オールコックの『大君の都-幕末日本滞在記』を引用しながら、生麦事件直前までの英国の対日政策を見て、時代の転換点を迎えていたとご説明しました。

 

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 ただ、この事件が起きた時、オールコックは一時帰国中で不在。事件の対応は、軍人出身で代理公使だったジョン・ニールに任されていました。サトウはニールの下にいて、具体的な事件直後の状況を書きのこしています。外交官と商人からなる横浜の外国人社会ではすぐに事故の善後策について協議が行われていました。

 

 その夜島津三郎は、横浜からわずか二マイルたらずの宿場、保土ケ谷に泊まるということがわかった。外国人たちの意見では、入港している外国船の兵力全部を集めれば、島津三郎を包囲して捕縛するのは造作もないことであり、またそうするのが当然だと言うのであった。 

 

 ここで出てきたのが、英仏など連合軍による即時報復案です。島津三郎とは、時の薩摩藩主、島津忠義の実父で藩権力を握っていた久光のことで、この時の大名行列の主でした。

 

 しかし、翌朝、各国の外交代表を交え、あらためて行われた会議で、ニールは

 

  大君(将軍)の政府をこの国の政府と見なすことができるとすれば、実際上日本と開戦するに等しい結果を招くことになる

 

と即時報復案に反対。フランス公使もこれに同調して、軍事的な衝突は避けられます。

 

 ただ、わざわざ「大君(将軍)の政府をこの国の政府と見なすことができるとすれば」と前置きしているあたりを見れば、オールコックだけでなく、ニールも幕府に愛想を尽かしていたことが伝わってきます。

 

 この時のニールの判断について、サトウは「最上の方策だった」と回想しています。

 

 商人連中の計画は、向こう見ずで、威勢がよくて、ロマンチックと言ってよかった。それはおそらく、あの有名な薩摩侍の勇敢さを圧して、一時は成功したかもしれない。しかし、外国水兵によって日本の有力大名が大君の領内で捕らえられたとなると、大君が「外夷」に対して国家を防禦し得ないという明白な証左になるわけだ。そうなれば、大君の没落は、実際に没落したよりもずっと以前に、そして、新政府の樹立を目指す各藩の連合がまだできあがらぬうちに到来しただろう。その結果、日本はおそらく壊滅的な無政府状態となり、諸外国との衝突がひんぴんと起こって、容易ならぬ事態を招いたであろう。 

 

  たしかに、ここで即時報復が行われていたら、日本の植民地化といった最悪の事態を招いていた可能性があります。日本史の教科書ではサラッと流されている感のある生麦事件ですが、ここは本当に危機的な状況でした。


 ニールが即時報復に賛成しなかったのは、「代理公使」という役職上の制約も大きかったと思います。あくまで正式の公使の留守中における代理の公使ですから、独断で大きな事を起こすことはできず、本国の指示を待つしかなかったのでしょう(実際に本国からの指示を受けた上で、ニールはこの事件の後始末をすべく薩英戦争に向かっています)。この点、日本は幸運でした。

 

 さて。もうひとつ、ここで気になる記述があります。「新政府の樹立を目指す各藩の連合がまだできあがらぬうちに」という部分です。史実では、薩長をはじめとする西国の雄藩連合によって、幕府は倒され、新政府が樹立されるわけですが、これを読むと、まるでそうなるように英国が仕向けたともとれる記述です。

 

 この意味深な記述が本当のところどうだったのか。問題意識を持って、さらにサトウの回顧録を読み込んでいきましょう。