グッと身近に来る日本史

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倒幕派に大義名分を与えた「英国策論」

 幕末における英国の外交官、アーネスト・サトウの名を一躍有名にした『英国策論』。幕府の崩壊がいよいよ現実のものとなった幕末のクライマックスで出版されたこの本は、新政府のあるべき姿を示唆、政局に大きな影響を与えました。果たしてこれは英国の謀略だったのか-。注意しつつ、彼の回顧録『一外交官の見た明治維新』を読んでいきましょう。

 

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幕府対薩長の対立が明確になる中で、出版された『英国策論』。たまたま出たかのようにサトウは言うが…

 

 『英国策論』とは、1866年(慶応2年)春、「English Policy」としてジャパン・タイムズに掲載されたサトウの論説記事が、その後、日本語に翻訳されて小冊子として出版され、1867年(慶応3年)以降、国内に広く流通したものです。

 

 その主張は、

・将軍は諸侯連合の代表であり、日本全土を支配する存在ではない

・独立大名(外様藩)は開国から時がたつにつれて、貿易への関心を強めている

・日本は、天皇を中心とした諸侯連合へと移行し、新たに条約を結び直すべきである

というものでした。

 

 とくに、冊子の原文(国立国会図書館デジタルコレクション)を読むと、

 

 今此ニ改革ニ及フトモ強チニ日本ノ君主タルヨウニ偽リシ大君を廃スルト言ドモ国家ノ顚覆ニハ至ラサルナリ 

 

といった文章まで見られます。現代文に訳せば、「今ここに改革に及ぶとも、日本の君主であるように偽ってきた将軍を廃するとしても、国家転覆にはあたらない」となり、まるで「倒幕は社会的正義である」と言うかのような刺激的な内容となっています。

 

 ただ、主張の核心部分については決して目新しいものではありません。将軍が日本全土を統治する存在なのか(=外様大名の領国にまでその主権が及ぶのか)という疑問を抱えたまま、ひとつの国として外国と条約を結ぶという幕藩体制の矛盾については、開国交渉の始めから幕府、欧米ともに外交の当事者間ではある程度共有されてきた問題でした。

 

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 それに昨今の情勢を交えて、より具体的に論じたというのが『英国策論』であって、ここではそのオリジナル性よりも、あくまで外交の当事者間の「ひそひそ話」だったものが、広く日本人一般の知るところとなった、という部分に歴史的意義があるように思います。

 

 そういう話が、なぜこのタイミングで出てきたのか。 しかも、翻訳されて国内に広く流布したのか。サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』を読むと、その経緯は次のようなものでした。

 

 薩摩の貿易船が一隻この横浜へ入ってきたが、日本側の当局は、外国人の社会とこの船の人々との交際を防ぐために、神奈川寄りのはるか遠くに停泊するように命じた。私はこの問題を採りあげ、大君と締結した条約が不満足なものであることを述べたてた。その条約は、外国人との貿易を大君の直轄地の住民だけに局限して、この国の大部分の人々を外国人との交渉から断ち切るものであった。そこで私は、条約の改正と日本政府の組織の改造とを求めたのである。 

 

  また、翻訳されて、出版されたことについては、

 

阿波候(訳注、蜂須賀斉裕)の家臣である沼田寅三郎という、いくらか英語を知っている私の教師に手伝ってもらって、これらを日本語に翻訳し、パンフレットの形で沼田の藩主の精読に供したところ、それが写本されて方々へ広まった。その翌年、私が旅行の際に会った諸大名の家臣たちは、この写本を介して私のことを知っており、好意を寄せてくれた。しまいには、その日本文が英人サトウの「英国策論」、すなわちイギリスの政策という表題で印刷され、大阪や京都のすべての書店で発売されるようになった。

 

 

とあって、まるで偶然生まれたかのような話になっています。

 

 ただ、これを偶然で片付けてしまうには、あまりにも絶妙のタイミングと言えます。『英国策論』がジャパン・タイムズに掲載された1866年(慶応2年)春の前後に何が起きていたか、列挙すると次のようになります。

 

1865年

 6月   将軍家茂、第2次長州征伐のため江戸出発

 11月  条約勅許

1866年

 3月   薩長連合成立

 春  『英国策論』の原文「English Policy」がジャパン・タイムズに掲載

 7月   第2次長州征伐で長州が勝利

     英公使パークスが鹿児島訪問

 8月   将軍家茂死去

1867年

     和訳された『英国策論』が国内で出版、流通 

 

 これを見ていただければ、明白ですが、『英国策論』の原文「English Policy」がジャパン・タイムズに掲載されたのは、ちょっど薩長連合が成立した直後で、幕府対薩長といった図式が明確になりつつある時期でした。  

 

 このタイミングで、このような意見を発表すれば、どのようなことになるのか。外交官として内政干渉にあたるのではないか。サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』を読んでも、そのあたりは全く関知していないかのような書きぶりです。

 

これは、勤王、佐幕の両党から、イギリス公使館の意見を代表するものと思われた。そんなことは、もちろん私の関知するところではなかった。私の知ったかぎりでは、このことが長官の耳に入ったことはなかったようだ(後略)

 

 ですが、サトウが、いくら当時はまだ若かったとはいえ、この程度の情勢判断もできないような「ぼんくら外交官」だったはずはありません。また、上司であるパークスも全く知らなかったとはとても思えません。

 

 実際のところ、この時の英国(本国)政府は、日本の国内政局には中立であれ、と在日公使館に指示を出していたことがわかっています。

 

 ただ、日本にいる側としては、薩長の側に加担したい気持ちがどうしてもあって(『一外交官の見た明治維新』を読むと、サトウが薩長側の人間に好意を寄せていく様子がわかります)、本国の訓令から逸脱しない範囲内で最大限の支援をこういう形で行ったとみると、腑に落ちるところがあります(と言っても、やはりかなり逸脱しているような気がしますが…)。

 

 いずれにせよ、結果、このタイミングで出版され、広く読まれることになった『英国策論』は、倒幕の大義名分を薩長に与え、西国諸藩を中心に彼らへの支持を広げることになります。

 

 英国は外交の当事者間では共通認識になっていたこの問題を、ここであえて広く日本国民に「リーク」することで、(現場が主導する形で)自分たちが描いた通りの新政府づくりを進めたと言っても、あながち間違いではないでしょう。

 

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