2017-01-01から1年間の記事一覧
幕末の英国公使、ラザフォード・オールコックの記した『大君の都-幕末日本滞在記』を読むシリーズ3回目。今回はオールコックが実際に体験した桜田門外の変と、英国公使館の初動対応について。
幕末の英国公使、ラザフォード・オールコックの記した『大君の都-幕末日本滞在記』を読むシリーズ2回目。今回はオールコックが、英国が攘夷の標的となっていることに対して、必要以上に被害妄想的になっていたその意外な理由についてです。
今回は、幕末にイギリスの初代駐日総領事(後に公使)として来日したラザフォード・オールコックの記した『大君の都-幕末日本滞在記』を読みながら、攘夷運動吹き荒れる幕末にタイムスリップしていきましょう。
幕末に日米修好通商条約交渉の通訳として活躍したヘンリー・ヒュースケンの日記『ヒュースケン日本日記』シリーズの4回目。「即時開戦」を主張する外様大名たち。事態が想像以上に緊迫していたことを日記は伝えています。
幕末に日米修好通商条約交渉の通訳として活躍したヘンリー・ヒュースケンの日記『ヒュースケン日本日記』シリーズの3回目。今回は大名が猛反対した「7条問題」について、ヒュースケンの日記を見ていきましょう。
幕末に日米修好通商条約交渉の通訳として活躍したヘンリー・ヒュースケンによる『ヒュースケン日本日記』を読む2回目。今回は、オランダの登場で乱戦となった外交交渉の様子を垣間見ていきます。
今回は、幕末に日米修好通商条約交渉の通訳として活躍したヘンリー・ヒュースケンが書き残した日記『ヒュースケン日本日記』を読みながら、幕末という時代にタイムスリップしていきましょう。
『ハリス日本滞在記』を読んで歴史を考えるシリーズの最終回。今回は諸大名の反対にあいながらも調印された日米修好通商条約交渉の裏で、ハリスひいては米国がどう動いていたのかを見ていきます。
『ハリス日本滞在記』を読んで歴史を考えるシリーズの5回目。開国(日米修好通商条約)に大名が反対したその真意を深掘りすると、幕藩体制の根本的な問題に行き着きます。
『ハリス日本滞在記』を読んで歴史を考えるシリーズ4回目。今回は開国(日米修好通商条約)になぜ大名が反対したのかについて。ハリスの日記を読むと、彼らが条約のどの部分に反対していたのかがわかります。
『ハリス日本滞在記』を読んで歴史を考えるシリーズの3回目。今回は日米修好通商条約交渉を通じてハリスが知らされた、階層別の開国への賛否を分析していくことにします。
『ハリス日本滞在記』を読んで歴史を考えるシリーズの2回目。今回はハリスが江戸に入った際の庶民の反応から、開国に対する当時の「世論」を見ていくことにします。
開国前夜の日本を「質素と正直の黄金時代」とみていたタウンゼント・ハリスは、その行く末を案じつつも、米全権として日米修好通商条約交渉にのぞみました。彼の日記『ハリス日本滞在記』を読みながら、幕末という時代にタイムスリップしていきましょう。
人類共通の資産として映像で歴史を記録するということを考えれば、主体は一般の方々となります。ただ、現状、一般の方々には映像制作のノウハウがなく、それを習う場が必要になります。そこで考えられるのが大学です。
伝わらない史実はなかったも同然。伝わってこその歴史です。ただ、文字による記録は比較的行われていますが、映像による記録はまだまだと言わざるを得ません。そこで映像による
極楽寺界隈は鎌倉市内とは言いながら、中心市街地からは少し離れた場所にあります。この穏やかな地で書かれたのが、100箇条にもなる家訓『極楽寺殿御消息』でした。
極楽寺界隈の持つおだやかさとは正反対に、北条重時の人生は常に人々の争いごとのまっただ中にありました。そんな中でも、重時は争いごとをなくすべく尽力していました。
映画『海街diary』の舞台となった鎌倉極楽寺界隈。極楽寺は鎌倉時代中期、北条重時によって建立されました。その重時の人生を見てみると、極楽寺界隈の持つ独特な雰囲気のゆえんが見えてきます。
「士農工商」とともに「鎖国」の2文字も平成の歴史教科書からは消えました。昭和の時代に教育を受けた者からすれば、本当に江戸時代は激変してしまいました。『こんなに変わった歴史教科書』では、その理由について
「士農工商」は昭和の歴史教科書では非常にポピュラーな用語でしたが、平成の歴史教科書からはストンと消えてしまいました。『こんなに変わった歴史教科書』では、その理由について
『こんなに変わった歴史教科書』を読むと、「歴史」が実はどんどん塗り変わっていっていることがよくわかります。まず、幕末の日米和親条約に関わる歴史教科書の記述の変化を見ていきましょう。
日米和親条約が結ばれると、すぐに通貨問題が出てきたことが、『ペリー提督日本遠征記』を読むとわかります。今回は日米通貨摩擦の始まりに関する秘話をご紹介しましょう。
職人の技能の高さとともに、ペリーが日本の経済大国化を予見していたもうひとつの理由に、日本人の旺盛な知的好奇心がありました。ここではとくに吉田松陰に関する記述からみていきましょう。
今回は歴史を離れ、私の著書『大学生のための動画制作入門』のご紹介をさせていただきます。今や映像制作は特定のプロだけが手がけるものではなく、一般の方でも撮影、編集して作品を作る時代となりました。
日米和親条約が調印されると、ペリーは上陸して、具体的な日本人の暮らしに接することになります。遠征記では、日本の職人たちの技能を非常に高く評価していました。
交渉ごとでは、これが出てくれば成功だと確信する場面があるように思います。日米和親条約では、箱館開港というカードを幕府が切ったことで、複数港開港という目標にめどをつけたペリーは態度を軟化、妥結に向かいました。
『ペリー提督日本遠征記』は、黒船来航で有名な米ペリー艦隊の2度に渡る日本への遠征について記された米側の公式記録です。今回はこの遠征記を読みながら、幕末にタイムスリップしていきましょう。
今回は日本側から見た黒船来航の意味とは何だったのか、その本質を『日本1852』を読みながら考えます。黒船来航は蒸気機関の発明が前提であり、産業革命の波がいよいよ日本にも到達したということだったのです。
『日本1852』では、太平洋航路の開設による米国のメリットについて、興味深い文献を紹介しています。それらを読むと、日本への開国要求は、世界のリーダーにならんとする米国の野望の一環だったことがわかります。
1852年に米国で出版された『日本1852』を読むと、ペリーを日本に派遣した当時の米国の思惑が見えてきます。